interview


Interview September 15, 2013 by Michael Guarneri
débordements .

映画監督として動きのあるイメージを作るということをお仕事にされているわけですが、しかしながら絵画(つまりは静止されたイメージ)というものが主たる芸術的インスピレーションの元であるということを監督がおっしゃっておられたのを拝読しました。私にはこの矛盾(動画- 静止画)が、とても興味深く感じられ、ぜひともこの点において質問させて頂きたく思います。一体、どのような画家達に、どのような点において影響を受けられましたか?

今まで私は、映画のインスピレーションは、絵画から受けてきました。でも、基本的に私は絵画に限らず想像をさせてくれる作品や出来事であれば、なんでも受け入れます。それがあなたの言う静止画であろうがなかろうが、どちらでも良いのです。つまり私に想像をさせてくれる力のあるものであるなら、すべてOKなのです。 例えば、ここに一枚の人物の絵画があったとします。私がそれを観た時に、その人物がこれから何をするのだろうか?とか、何を考えているのだろうか?とか。そのように私に思わせてくれたなら、私はそれを徹底的に考えます。すると物語とイメージができ、私の頭と心の中で脚本の構想ができあがるのです。そして私は、その脚本をどうすれば魅力的になるかを考えます。それらがすべて確固たるものとなった時に、私は心の底から映画を創りたいと思います。 ですから私の場合、そのように映画を創らせようと思わせてくれるきっかけが、絵画との出会いが多かったということです。ちなみに具体的に言うと、映画「追悼のざわめき」は、フランシス・ベーコンとマルク・シャガール。「豚鶏心中」は、スー・チン。「錆びた缶空」は、寺山修司さんの落書き。「どこに行くの?」は、ポール・ゴーギャンです。 世の映画監督はみんなそれぞれに発想の段階で癖があります。例えば、私の友人の映画監督たちは、音楽からとか、詩からとか、新聞記事からとか。そのようにいろいろな素材から映画創りのインスピレーションを受けています。私の場合は、絵画から発想をすることが多かったということです。


映画製作以外に、御自分でも絵を描かれたり、他の芸術的な表現方法に携われたり、またはそういったものに御興味をお持ちですか?

今の私は映画以外の芸術的な創作活動はしていません。 でも以前、私は陶芸をしたことがあります。それはとても新鮮で嬉しい経験でした。というのは映画製作では、私は監督という立場上、イメージをスタッフや俳優に伝えます。それは私にとっては間接的な表現方法なのです。でも、陶芸は自分の手で作品を形作るので、直接的な表現方法なのです。ですから、この陶芸の経験はとても私に新しい経験と視点を味わわせてくれました。


寺山修司の賞賛者だということを拝読しました。松井監督ご自身としては「完全芸術家(total artist)」という概念にどのようなお考えをお持ちですか ?

私が芸術表現をするのは、今は映画だけです。でも、将来は分かりません。私が自然に、演劇をしてみたいと思ったらしますし。小説を書きたいと思ったら、そうします。私は自然に思ったことをしたいと思います。ただ、今の私には映画が私の心と頭の中に大きな存在を占めていますので、映画監督をつづけたいと思います。


映画製作という産業においては、「分業」作業が必要不可欠です。つまり芸術家(いうなれば映画監督)は、そういったシステムに順応せざるを得ないわけです。そのような分業制作に組み込まれた状態の芸術家像をどのように思われますか?もっと簡略に申し上げますと、例えば小説を書くのには一人で自分の部屋にこもって仕事をすることができますが、映画製作のためには、例えどんな小さなサイズのチームであろうが、スタッフやら俳優というものがどうしても必要になってきます。

仰るように、映画は集団作業です。世の中の映画監督の多くは、「分業」という形で映画に関わっています。ただ私の映画創りは発想から完成まで、私がすべてに関わり、チェックをし、最終決定も私が下しますから、完全なる分業ではありません。 そして集団作業だからこそ素晴らしいこともあるのです。つまり自分が気づかなかったことを気づかせてくれる。それはスタッフや俳優とのコラボレーションだからこそ、生まれることなのです


松井監督の映画製作において「書かれた言葉」というものが占める役割とは、どのようなものでしょうか。そして、実際の撮影をするセットという場において、監督は脚本というものをどのように捉えていらっしゃるのでしょうか。個人的に私が魅惑されてやまないことは、言葉というものを、監督が演出時にどのような方法で映像に昇華されているのかということです。

私にとって、脚本は映画の設計図です。設計図がしっかりとできていなければ、欠陥建築になってしまいます。ですから、脚本は映画の命だと思います。 その私の脚本ですが、まず私は脚本には丁寧すぎるくらいに台詞とト書きを書きこみます。そして、書き上げたあと、私はすぐに台詞とト書きの省略作業に入ります。絵コンテや撮影のための準備をしているときも、私はどんどんそれらを省略していきます。そしてその省略をした台詞とト書きを含めた、そのシーンのイメージを的確にあらわす映像を考えられる限り考え、その映像はシンプルなものとします。その理由は、極力、映画は映像で訴えるものだと、私は思っていますのでそのように努めます。


即興演出というものを、いかがお考えですか?または反対に、演出における全ての事柄が、撮影前にきちんと計画されたものであるべきだとお考えですか?観客として、私の個人的な印象ですが、監督の初期の作品群を拝見して、全てがとても「自然に起きているような」ものに思えました。

あなたの指摘は素晴らしいです。そのとおりです。 というのは、私は映画にとって「自然」が最も大切なことのひとつだと思っているからです。 私は発想の段階から完成までの間、常に「自然で魅力的な映画にするにはどうしたら良いか」を考えられる限り考えます。そのために脚本を読み返し、絵コンテを練りあげます。でも、撮影現場では思いもよらぬことが、たまに起こります。その時、私は前記したように、常に「自然で魅力的な映画にするにはどうしたら良いか」ということを考えていますから、瞬時にどうするのが最善かの判断が下せます。私はそういうかたちでの撮影をします。一般的に言われる即興演出は、私には分からないことであり、私にはできないことですし、したくありません。


「映画セット」というものに対して、いかがお考えですか?そして、この「セット」と呼ばれる特別な空間において「境界線」というものがあるとすれば、それは何だと思われますか。 そして映画セットとは、単純に物質的(physique)な空間と言えるでしょうか。または、それをも超えた純然たるイデア論的(ideal)な空間でしょうか。 監督こそが、この空間においての「支配者」であると思われますか。「監督とはコントロールする人間である」という一般的な定義を好意的にとられますか。

私にとって「映画セット」とは、私が考えた脚本(物語やイメージ)を具現化するための素材のひとつです。ですからどのようなセットを作るか、あるいは探してくるか。それはその脚本がより魅力的になるかどうかを決めるとても大切な素材です。 ご質問の「境界線」というのは、私にとっては映画が完成したときがその境界線だと思っています。映画が完成するまでは、私はどうすれば作品がより魅力的になるかを考えていますので、撮影をやりなおすことになるかもしれません。ですから映画の完成という区切りがその境界線だと思っています。 セットが物質的かイデア論的かは、その作品の内容によって決まると思います。 監督が支配者かどうかは、私にはよく分かりません。ただ言えることは、監督は表現についての最終決定権をもっている人物であるということです。


松井監督は「錆びた缶空」(1979年)、「豚鶏心中」(1981年)、「追悼のざわめき」(1988年)を、同時録音ではなく、そしてフィルムを使用して撮影されました。残念ながら私はまだ「どこに行くの?」(2007年)を拝見することができずにいるのですが、この映画においては従来のフィルム撮影だったのでしょうか?それともデジタル式撮影だったのしょうか?そして、もしデジタル式撮影を選ばれたのであれば、異なるテクノロジーを使用して作業をされたことに対しての印象をぜひとも伺いたく思います。

映画「どこに行くの?」は、デジタル撮影と同時録音で撮影をしました。私がそれを選んだのは、製作費の問題からそうせざるをえなかったのです。つまり低予算(1,000万円)でしたので、フィルムを使うことはできなかったのです。 私が思うデジタルの印象は、フィルムよりも画面が硬調でウェット感が足りず、中間色の微妙なトーンが出せないということ。音質も硬調で耳にうるさく、自然さが足りないというものです。これらについては以前から思っていたことなので、脚本を書いている際にそれらを意識して、台詞やト書きを書きました。録音では、「追悼のざわめき」の録音を担当してくれた浦田和治さん(うらた ともはる)が、より自然な音質での録音にしようと作業を進めてくれました。私はとても彼に感謝をしています。 そのような経験をした私が今、思うことは、今もそうかもしれませんが、当時のデジタルとフィルムを比べたら、「フィルムの方が、断然、圧倒的に、良かった」ということです。しかし、フィルムの良さを理解している人は、これからどんどん少なくなっていきますから・・・。まぁ、それは時代の流れですから、しかたないことですね。

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