review

観ている間、ずっとざわざわしていた。そして、今、思い出しただけでもざわざわしてくる。このタイトルは、鑑賞者の感覚を表現しているものなのかもしれない。

既に平均寿命の半分ほどを生きてきて、色々なものを見、体験もしてきた。その成果として、初めて目にするものも既視感があったり、以前見たものを彷彿とさせたり、ほとんどのものは、自分の中で系統別にフォルダに入れて整理することができる。良くも悪くも、そうやって整理することで、初めて見るものを深く理解することができるようになる。

でも「追悼のざわめき」は、既にあるどのフォルダにも入れることができなかった。そして、「追悼のざわめき」のためのフォルダを新しく作っても、そのフォルダをどこに置いたらいいのか、未だにわからない。

鑑賞中、道徳観や理性など、まるでまだ知らない子供のように、目の前にある映像をただ眺め、気がつけば、いつの間にか深く巻き込まれていた。痛みや寂しさ、そして、言葉では表現できないような感覚まで、直接、突き刺さってくる。冷静になるために、映画を観ている自分の眼球に映像が映り込んでいるところを何度も想像した。そうするとなおのこと、自分が正気を失っているようで、怖くなった。そうやって、ずっと、ざわざわしながら観た「追悼のざわめき」は、今現在も理解できてはいないが、もの凄く素晴らしい作品だったと断言できる。


束芋(現代美術家)

『追悼のざわめき』は、僕にとって特別な映画であることは間違いない。上京した頃、住んでいた町の小さな映画館の一番前の席で浴びるようにこの美しいモノクロームの映画を観た。20歳だった。僕の青春には『追悼のざわめき』が染み付いている。あれから絶望するたびに、このせつない夏の映画を思い出すのだ。


行定勲(映画監督)

佐藤重臣(映画評論家)

(1988年「追悼のざわめき」公開当時のパンフレットより転載)

この映画は、すさまじい「決断」によって作られている。見る方も、その「決断」に対応するかなりのパワーを必要とする映画である。私にとってこの「追悼のざわめき」はグロッタ(イメージの洞窟)との長いつき合いの映画史のなかでも、初めてと云ってよいほどの緊張の体験を強いられた映画である。
たじたじと、自分が怯んでいるのが、よくわかった。何故、このように自分が負けまいと懸命になったか、その理由をたどってみると、グロテスクな表現はさておき、そこに散りばめられた表象物の意味を、自分が果たしてそれに即した言葉に置き換えることが出来るかどうか。その"ひるみ"が第一にあった。
少しずつ、この映画を自分がわかるために整理していったのだが、まず、出てくる傷痍軍人のカップルにわたしは陶然とした。戦争でまさに"骨餓身"になった、この御両人が、とても役者演技に思えない。骨が吠えている。ふたりが夜、うどん屋のカウンターの下で、晩餐をやっている。その嬉しそうな表情こそ、まさにオージー(狂宴)に近いものだ。
この傷痍兵士の募金箱を奪う誠は、下水の掃除会社で働いてる。この世の汚いものを全部知っている男だ。その男が、夜も更けてくると、自分が唯一愛しているマネキン人形と、甘美にワルツをかなでる。更に大須賀勇扮する、ザムザ虫のような男もまた、そのマネキン人形に恋をして、夜な夜な「コンバンワ」と愛を告げにくる。この恥じらいの旋律。それは、すべて、夜のとばりが、少しずつ、この愛に満たされない者たちへ、ゆるやかな弛緩の円舞曲を与えてくれているのだ。遠く聞こえる列車の連結の音や"ざわめき"が、 どれだけこの人たちに安堵を与えているか。釜ヶ崎の愛の夜の生暖かい、淀んだ空気が、この時、快楽のように肌をなごませる。
しかし、一転、白昼の釜ヶ崎は彼らを射る。あらゆる傷が白日にさらされ、苦しむ体を眺めている。視線が人を焦がす。
小人症の兄妹は、誕生日のお祝いに、大きいノシ袋の布団で、性をプレゼントする。妹が強姦されると、セックスを知ってよかったと、兄は喜ぶ。
だが、映画はこのシノプシスの範囲にとどまろうとしない。白日には、壊れたコップや、大きいタイヤのオブジェが生命をふき返す。一方、小人症の兄妹が幽体のように浮遊し、シュールリアリズムの世界に入ってゆく。そう-、この映画は「下降快楽」を一方にむさぼり、一方にいまだ、やって来ない「神」をまさぐっているのだ。
汚辱にまみれること。汚辱を白日にさらすこと。自分の内部にわだかまっている生理的臓腑をとり出すこと。そうすることによって、「聖性」に近づくと、松井は判断したのかもしれない。
神に縁のなかった我が日本の風土のなかで、このさまよっている、あまりの「飢餓」の人間をいやしてくれるものはなんなのだろう。
すさまじい表現は更につづく。
懐妊したマネキンの腹を小人症の妹がぶち破る。眠りの快楽をむさぼっていた胎児は、驚愕の悲鳴をあげる。この一瞬のバッティング・ショットの振動を見るがいい。
ガレージのシャッターが、次々と降ろされると、そこはもう昼から夜へ、イメージが逆流する。アヴァンギャルドは血の海と化し、兄妹を渚のたよとう海に導く。イメージが縦・ヨコ・右と交差し、連結、呼応し合って強靭な<文体>を作り上げる。
これは稀なる強靭な表現を持った映画なのである。風化したアヴァンギャルドを踏みつぶし、臓腑を叩きつけることによって、前衛は神をたずさえて復活する。
日本のインデペンデントは、昨年「ゆきゆきて、神軍」を送り、この年「追悼のざわめき」を送れたことをここに誇りにしなければいけない。


佐藤重臣(さとう・じゅうしん / 映画評論家)
雑誌「映画評論」元編集長、前衛映画、アングラ映画などに造詣が深く、主宰した「黙壷子フィルムアーカイブ」でいち早く「フリークス」「ピンクフラミンゴ」等を日本に紹介。
1988年 2月27日、脳出血のため急逝。本稿を絶筆として遺す。